「ま、当たって砕けろってやつだ。取材はNGでも、デザインのオファーなら受けてくれるかもしれんしな」
「……はぁ」 「でもお前、真面目だからなぁ。あんまり頑張りすぎるなよ?」最後はふざけた調子で、部長は私の頭をちょこんと小突いた。
仕事する上で、真面目のなにがいけないのか教えていただきたいものだけれど。しかし、最上梨子……小難しい人だったらどうしよう。
私が意気揚々と張り切ろうとしていたところで、出ばなをくじかれた形だ。 何事もそんなに全てトントン拍子にうまく進むわけがないのだから、部長の言うとおりダメ元で当たってみるしかない。 とにかくアポイントを取ってみなくては話にならない。 悩むのは、実際に断れてからだ。 私は大きく息を吸い込んで深呼吸し、最上梨子デザイン事務所へと電話をかけた。―――― これが気苦労の始まりだと、知りもせずに。
最初の電話だけでオファーを断られるかもしれない。
話だって、何も聞いてもらえないかもしれない。 そういう予感もあったのだけれど、驚くほどすんなりとアポイントが取れて、一週間後に最上梨子デザイン事務所へ赴くことになった。「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
「ありがとうございます」事務所を訪れると、思っていたよりも小さい規模の建物だった。
私を出迎えてくれたのは、センスのいいジャケットを着た黒髪の男性だ。 年齢は私より少し上くらいだろうか。 考えてみたら最上梨子事務所のスタッフなのだから、服のセンスは良くて当然。そしてすぐに事務所内のミーティングルームのような小部屋へ通された。
失礼ながらも部屋を見回すと、いたって普通のものしか置いていなかった。 しかも必要最小限だから、ガランとしていてとても無機質な感じがする。「どうぞ、お掛けください」
ぼうっと立ち尽くしていたところに、先ほどの男性がコーヒーを持って再び現れた。
「すみません。改めまして、リーベ・ブライダルの朝日奈と申します」
私が自分の名刺を差し出すと、その男性は笑顔で受け取ってくれた。
そして男性も胸ポケットの名刺入れから名刺を取り出して、私に差し向ける。「最上梨子のマネージャーをしております、宮田(みやた)と申します」
名刺には『 宮田昴樹(こうき)』と、名前が記されていた。
へぇ、この人はマネージャーさんなのか。「最上に関することでしたら、まずは私がお話を聞かせてもらいますので」
最上梨子はメディア嫌いだから、窓口はすべて宮田さんが請け負うということなのだろう。
本当は本人と話がしたかったけれど仕方がない。 ここを乗り切ってこそ、第一関門突破になるのだ。「あぁ、そうそう。あなたの記事、拝見しましたよ」
「え?!」私の記事……と言えば、思い当たるのは一週間前に発売されたあの雑誌しかない。
まんまと部長に騙されてしまった例のやつだ。「あ……お恥ずかしい限りです」 穴があったら入りたい気分だった。 いきなり会話の冒頭でその話題になるとは思ってもみなくて。 本当に恥ずかしくてたまらない。 どんどんと顔が赤らんでいくのが、自分でも手に取るようにわかるくらい。「どうしてですか。あの記事の方だから、お会いしてみようかと思ったのですよ?」 部長の策略に引っかかったことが、意外にもこんなところで役に立っている。 仕事に繋がったのなら、生き恥をさらした甲斐があったかもしれない。「お願いですので……あれは忘れてください」 「忘れませんよ。そんなのもったいないです」 私が恐縮しているのが可笑しいのか、笑いながら朗らかな空気を作り出してくれる宮田さんは、大人で紳士で素敵だ。「では、本題に入りましょうか」 「はい、実は最上さんにデザインをお願いしたいものがありまして」 私はバッグから書類を取り出してテーブルに置き、宮田さんの目の前に並べた。 そして私が思い描いているドレスのイメージとコンセプト、ゆくゆく企画にしたいと思っている全体プランを、できるだけわかってもらえるように懇切丁寧に説明を繰り返す。 宮田さんはその書類を無言で見つめ、しばらくしてから口を開いた。「朝日奈さんの企画の趣旨はわかりました。だけど、最上はブライダルドレスのデザインの仕事はしたことがありません。本当に最上でよろしいのですか?」 その質問に、私はパッと顔を上げる。そして大きく息を吸い込んで意気込んだ。「デザインをお願いするなら最上さん以外考えられません。どんなドレスをデザインされるのか、考えるだけで舞い上がりそうになります。私は最上梨子というデザイナーに惚れこみました。あの方の才能溢れるセンスなら、どんなものでもデザインできると、勝手ですがそう信じています」 「……」 「できるだけのことはこちらもしますので、是非一緒に仕事をさせていただきたいのですが」 自分の思いのすべてとはいかなかったが、三分の一くらいは言えただろうか。 少なくとも、私の情熱だけは伝わったかな。 ふと目線をあげると、机に頬杖をついた宮田さんとバチっと目が合った。 さっきは頬杖なんてしていなかったのに……。なんだか今までと雰囲気が違う。「できるだけのこと、してくれるんですか?」 「えぇ……私にできることでした
「こちらの要求は、たったひとつ。“ 秘密を守ること ” その一点のみです」 「秘密?」 「むずかしく言いましたが、あなたが誰にも他言しなければいいだけのことなのですよ」 「はぁ……」 「会社にも友人にも家族にも、です。できますか?」 秘密にしたい内容はさっぱり見当もつかないけれど。 とにかく、誰にも言ってほしくないことがあるらしい。「あなたが秘密を守れるというならオファーをお受けしましょう。守れないというなら、この話はなかったことに」 「え?! 守ります! 絶対秘密にします!」 「あなたが約束を破って他言した場合、こちらも一方的に仕事の契約は反故にします」 私を見つめる真剣な漆黒の瞳。油断したら吸い込まれてしまいそうだ。「わかりました。私を信じてください」 どんな秘密か知らないけれど、私が一切他言しなければいいのだ。 ただそれだけでオファーを受けてもらえるのなら、こんなに容易いことはない。 というか、そこまで厳重に守らなければいけない秘密って……。「では、ついて来てください」 言うが早いか宮田さんがおもむろに席を立つ。一体どこへ行くのだろう?「え? どちらに?」 「最上に会わせます」 「本当ですか?!」 最上梨子……本人に会える! どうやら私は第一関門を突破できたみたいだ。 宮田さんは、私を最上さんに会わせてもいいと思ってくれたのだから。 認められたと思うと嬉しすぎて、宮田さんが後ろを向いている隙に小さくガッツポーズをした。 実際に会う彼女はどんな感じの女性なのだろう? 綺麗な人かな? とてもキュートで可愛い人? つかのまの移動の間にあれやこれやと想像が膨らむ。 宮田さんの後をついて行くと、彼は事務所の最奥にある正面の部屋をノックもせずにガチャリと開けた。 広い部屋。それが第一印象だった。 入ったところの正面に、大きなガラスのテーブルと高級そうな黒いソファーがどーんと置いてある。 どちらもセンスがいい。 というか、この部屋の空間全部のセンスがいい。 ――― さすがは最上梨子。 ここは彼女が実際に使っている部屋なのだろうか。 仕事用のデスクも奥にある。入った瞬間、雰囲気的にアトリエのような感じがした。 部屋に入るなり、宮田さんなに
今の会話は……成立していただろうか。 まったく噛み合っていない気がする。 しかもかわいらしく「ごめんなさい」って言われても困る。 にこにこと砕けた笑顔になっていく宮田さんを呆気に取られながらじっと見つめると、ソファーに座るように促された。「ごめんなさいって……騙したって、どういうことですか?」 気がつけば私の顔からは愛想笑いの笑みがすっかり剥がれ落ちていて。 自然と何かを疑うような顔つきになっている自覚はある。 それも仕方ない。初対面なのに騙したなどと言われたら、身構えてそうなってしまうと思う。「すみません、単刀直入に言ってもらえませんか?」 はっきりとした口調でそう言うと、正面に座った宮田さんが私の顔を覗き込んだ。 こうなったら、腹を割って話して欲しい。「僕が、最上梨子です」 数秒間、ふたりの間に沈黙が流れる。 意味がわからないどころか、自分の耳を疑った。「あの……それってどういう……?」 「そのままの意味ですよ。さっきは僕と最上が別人みたいな言い方をしてごめんなさい」 「う、うそですよ!」 えっと……宮田さんは実は最上梨子で、ふたりいると思っていた人物が、実は同一人物だった? いや、いやいやいやいやいや。そんなことはありえない。「だって、最上梨子は女性ですよ?!」 「僕は女性だと公表した覚えはないんだけどな。名前が女性っぽいからみんな勝手にそう思ってるだけで」 「そ、それに宮田さんは、自分はマネージャーだって……」 「あー、それは騙しました。隠れ蓑になってちょうどいいからそう言うようにしていて。幸いみんな最上梨子は女性だと思ってるから、まさか僕が最上本人だとは予想もしてない」 それはそうでしょう。 私だって、悪いけどこんなキリッとした男性が最上梨子だとは、まったく想像だにしなかった。「ショックだった? ごめんね」 呆然として放心状態の私をよそに、宮田さんが可笑しそうにクツクツと笑いを漏らす。 からかわれているだけ……ではないようだ。「これが守ってもらいたい秘密。僕イコール最上梨子だと誰にも言わないこと」 目の前で起こっていることが、とても現実だとは思えない。 夢でも見ているんじゃないだろうか。仕事だということも、一瞬忘れてしまいそうだ。「秘密は
最上梨子の“秘密を守る”という条件付だったけれど、仕事のオファーは無事に請けてもらえることになった。 会社に戻って部長に報告するとよろこんでくれて、すぐに稟議書を書き上げて、会社に提出するまで事を進める。「きっと稟議は通るよ」 部長が言ってくれた通り、しばらく日が経ってから新作ドレスの稟議が降りたと上から知らせが来た。 もちろん、これからまだまだ道のりは長いのだけれど。「朝日奈、やったな! 会社のOKも出たし。いいドレスができるのを期待してるよ」 「はい!」 私も満面の笑みだったけれど、部長も興奮していていつもより声が上ずっている。そしてなにより明るい。「だけどまずはデザインだな。最上梨子がどんなデザイン案を提示してくるのかわからんが、実際にそれがなきゃ話にならん」 「ですね」 最上梨子のドレスが、うちの衣装部のマネキンに飾られる日がくるんだと思うだけで頬が緩んだ。 最悪、私の企画が最終的に通らなかったとしても、新作のドレスは衣装部に入荷することになる。 もしそうなったとしても、私が携わったドレスなのだからそれだけでも個人的にはすごくうれしい。「実際に衣装が出来上がったら、モデルを使って新しいパンフレットを作ろう。撮影の予算は俺が会社に掛け合ってやるから」 「ありがとうございます」 「とにかくお前は最上さんのとこに行って打ち合わせしてこい」 「はい」 「女性なんだから甘いものとか好きそうだよな。どこかでスイーツの手土産でも買って、彼女の機嫌を取っておけよ?」 「……そう、ですね」 最後の最後に、顔が引きつってしまった。 この企画に意気込みすぎて、今は忘れてた。……最上梨子の秘密のことを。 誰にも言わないと約束したのだから、もちろんそれは直属の上司である袴田部長にも絶対に言えない。 最上梨子が実は男だったからと言って、会社に損失を与えるわけでもないし。 別に黙っていても、どうってことはない。 だけど今の引きつった顔……部長にバレていないだろうか。◇◇◇「お電話でもお話しましたが、今日は依頼したデザインの件で伺いました」 最上梨子デザイン事務所に赴くと、マネージャーの顔をした宮田さんが現れ、今度はすぐさま例のアトリエ部屋へと通された。「最上先生がデザインするドレスがどんなものになるのか、今から楽し
「では、最上さん、とお呼びすればいいでしょうか」 「昴樹さん、で」 ん? 本名のほうがいいということ?「では、今後は普通に宮田さんとお呼びしますね」 「ああ……まぁいいか」 なぜ不服そうなのだろう。 仕事をする相手なのだから、名字にさん付けというのは普通だ。 いちいちこういう反応をされると、なんだかやりにくい。「あ、それと。僕、最初と印象が違うと思うけど、本当はこういう人懐っこい性格なんでよろしくね」 「……はい」 最初と印象が違うのは、もうとっくに気づいている。 おそらく、あれは演じていたのだ。 大人でクールで卒のない、最上梨子のマネージャーという役柄を。 そして現在目の前にいる彼が、きっと本当の性格の宮田さんなのだろう。 それよりも、人懐っこいくせにどうしてメディア嫌いなのか、意味不明だ。 この人のことが全然理解できない。「すみません、お口に合うかどうかわかりませんが、これ……」 気を取り直して、持って来ていた手土産の袋をさりげなく宮田さんに手渡した。「これはなに?」 「マドレーヌです。上司に持って行けと言われましたので。あ! 大丈夫です。秘密のことはもちろん上司にも言ってませんから」 手土産を考えた結果、男性でも好みそうな無難なマドレーヌにしておいた。「あはは。秘密は守ってくれてるって信じてるよ。それに、上司の指示だって僕に言っちゃうあたりが朝日奈さんは正直だよね」 そう指摘されて、カッと顔が一瞬で熱くなる。 本当だ。今のはそこまで言う必要はない。ひとこと多かったと自分でも思う。「す、すみません」 「朝日奈さんは真面目なんだね。見てるとなんだか妹を思い出すよ」 「妹さんですか?」 「ああ。しばらく会っていないけど。妹は朝日奈さんよりもっと真面目で現実的なタイプでね。型破りな僕とは正反対」 話しぶりからすると、妹さんは芸術肌とは程遠いタイプのようだ。 兄妹で、全然違う性格なのだろうか。「じゃ、このマドレーヌで一緒にお茶しようか。朝日奈さん、悪いけどコーヒーを淹れてくれる? そこにコーヒーメーカーがあるでしょ?」 「え?! あの、仕事の話を先に……」 「えぇ~、マドレーヌが先だよ~。仕事の話は、それを食べてから聞くから」 「せめて、食べながら、でお願いします」 立ち上がり、軽く
「朝日奈さんも食べなよ。これ、美味しいよ」 「それはよかったです。で、デザインの件ですが……」 マドレーヌの話をバッサリとぶった切り、仕事の話へと無理やりシフトした。「僕、最初に言ったと思うけど、ブライダルドレスはデザインしたことがないんだよ」 「はい」 「正直、まったくイメージがわかない」 「えぇ?!」 まったく? 少しも? 全然? そんなことを今更言われても困る。まさか、できない、というのだろうか。 それなら何故引き受けたのかと言い返したくなる。「いい加減な仕事はしたくないんだよね。だからさ、イメージが湧くように朝日奈さんが努力してくれなきゃ」 「わ、私が?」 「だってそうでしょ。だいたいね、朝日奈さんの頭の中に描いてるイメージ、持ってきた書類だけで僕に全部伝わってると思う?」 「それは……」 「頭の中のイメージだよ? それを形にして表現するのが僕の仕事かもしれないけど、他人の頭の中のイメージを100%理解するのは無理」 私は今回の企画のためのいろんな資料を、次々に慌ててバッグから取り出した。 言われていることはわかる。 だとしたら、1%でも多くわかってもらえるまで伝えていくしかない。「その書類は、この前見たよ」 目の前に書類を出した途端、先にそう言われて突っぱねられた。「でも、もう一度……。不明な点があれば何でも聞いてくだされば」 「そうじゃなくて」 視線を上げて宮田さんを見ると、にっこりと笑ってコーヒーカップに口をつけていた。「僕はね、一緒に作りたいんだ。朝日奈さんと」 「……え?」 「朝日奈さんの頭の中のものを僕が形にしてアウトプットする。ということは、僕の頭の中にも、100%とはいかなくても似通ったイメージがないと、アウトプットできないわけでしょ」 「はい」 「だから、もっと僕たちはわかり合う必要があるってことだよね」 じゃあ……私は一体どうしたらいいのか。 漆黒の髪と漆黒の瞳。 キリッとした容姿のくせに、子どもっぽい口調と人懐っこい笑顔。 仕事を引き受けておきながら、イメージがまったくわかないと堂々と言う目の前の男性に、心の中は違和感と不安でいっぱいだ。 どう言葉を続けたらいいのかわからなくて、まごまごとする私を見て宮田さんが小さくクスリと笑うのが聞こえた。「とにかく、明
水族館へ行けば、優れたアイデアが浮かんでくると言っていた宮田さんだったけれど。 もしかして騙されたのかもしれないと感じたのは、その翌日だった。 お昼過ぎに現地集合という待ち合わせで水族館に赴くと、入り口のところに立っている宮田さんの姿が見えた。 いつもと違って、今日の宮田さんはカジュアルな私服だ。「朝日奈さん、早く早くー」 水族館の前で、うれしそうな笑みをたたえて手招きされると、小さい子どもに急かされているような気分になる。「お疲れ様です」 「十三時半からイルカのショーが始まるんだよ。だから急がなきゃ。って……朝日奈さんはなんでスーツ姿なの?!」 私だって待ち合わせの時間よりもずいぶん早く来ているというのに、いきなり急かされる意味がわからない。 なぜスーツなのかは、仕事だからに決まっている。「スーツじゃいけませんか? これも一応、視察なので仕事の一環ですし。というか、午前中は普通に会社で仕事をしていましたので、自然とスーツになります」 淡々とそう述べると、宮田さんが小さくプっと噴出して笑った。 笑うとは失礼だ。おかしなことはなにも言っていないと思うけれど。「とにかく行こう。イルカ、イルカ!」 「わっ!」 いきなり私の手を引いて、宮田さんが小走りに走り出したものだから驚いた。 繋がれた手に私の神経が一気に集中する。 子どもっぽいことを言わず、突飛な行動をしなければ、普通にカッコイイのにな……なんて思うと変に意識してしまいそうになる。「今度は私服で来てよ」 「あの、今度って?」 今度、私が事務所を訪れたとき? それとも今度、今日と同じように外で会うとき? いやいや、どちらもおかしい。 どちらも仕事なのだから、私服を着ていく意味がわからない。 というか……本当に読めない人だ。 だって今もイルカが跳ねるのを見て、キャッキャと喜んでいる。「朝日奈さん、サメってすっごくカッコいいんだね!」 「そうですね」 「あ! あそこにウミガメもいるよ! 朝日奈さんって、ちょっとウミガメに似てない?」 「あの、褒められていないと思うんですけど!」 イルカのショーを見終わった後も、ずっとこんな調子でテンションが高い。 あちこち引っ張りまわされ、精神的にも肉体的にも私に疲れが押し寄せる。「怒った? 冗談だ
「いっぱい写真撮ったよ。デザインの参考になるかな」 そう言って、スマホの画面を私に見せ付けてくるけれど。「ウミガメ……多いですね」 他の生き物の写真も撮っていたけれど、ウミガメの写真がやたらと多い。 そんなにウミガメを気に入ったの? 「え?! いつのまに撮ったんですか?……私が写ってる」 スマホをスライドさせると、次に出てきたのは水槽を見ている私の写真。ウミガメとの2ショットだ。「ほら……大きさの比較のために、朝日奈さんも入れといた」 お、大きさの比較? 私とウミガメの比較をして、この人はどうしたいのだろう。 あぁ、やっぱり全体的に意味不明だ。 進路を先に進むと、180度のトンネル水槽の空間へ。 そこはわりと広くて、全然圧迫感のない大きさだった。 濃いブルーの照明が、幻想的な世界を造り出している。 大きな水槽の中を悠々と泳ぐ魚たちがいる。 見上げると、大きなマンタが私の真上を泳いで行った。「こういう感じなんですけどね。深い深いブルーの色合いとか」「へぇ、なるほど」 ポツリと呟いた私の言葉は、主語なんてなかったのに。 宮田さんは水槽を見つめながらも合いの手を返してきた。「朝日奈さんの頭の中のイメージは、こんな感じだったんだ」 「はい」と返事をしようと思ったその時、背中に気配を感じた。 私はガラスの壁の向こうを泳ぐ魚たちを見ていたのだけれど。 背後から宮田さん、ガラスに手を付く形で私を挟んで覆いかぶさっている。「み、宮田さん」 瞬時に身体が硬直して、振り向くこともままならなかったから声で抗議した。 だって、私はガラスと宮田さんに挟まれているからすごい密着度だ。 だけど彼は「綺麗だねー」などとつぶやくだけで、その体勢はしばらく崩してくれなかった。 サラリとこんなことをやってのけるなんて、この男……本当は女たらしだったりして。◇◇◇ 例の水族館視察から十日が経った。 一昨日もアトリエ部屋に様子をうかがいに行ったけれど、宮田さんはいつもの調子で呑気に構えていた。 ……デザインは進んでいるのだろうか。それだけが気がかりだ。「緋雪、下にお客さんが来てるって」 会社で黙々と仕事をしているところに、受話器を持った麗子さんからそう声をかけられた。 誰かとアポイントなんてあったかなと、すぐ
次の日。 私は呼び出されるままに、午後から最上梨子デザイン事務所を訪れた。 パーティの件も気になるけれど、ブライダルドレスのデザインの進捗状況のほうも気になる。 ……うちの仕事、ちゃんとやってくれているのだろうか。「お疲れ様です」 「朝日奈さん、こっちこっち!」 私がペコリと頭を下げるも、挨拶すら割愛するわがままっ子様。 なぜか今日もテンションが高そうな笑顔で手招きしている。 ダメだ。早くも向こうのペースに飲み込まれそう。「こっちだってば! 早く!」 「み、宮田さん! ちょっと待ってください!」 なかなか歩を進めようとしない私に業を煮やし、宮田さんが私の左手を掴んで強引に引っ張っていく。 たまたま事務所内にほかの人はいなかったけれど、 強引に引きずられて歩く私は他人からみたらどんなに滑稽だろうか。 どうしてこんなに焦って歩くのかわからない。 だいたい、身長差があるから歩幅だって違うのだ。 そこのところを、わかっていただきたい。 というか、ちょっと待ってと言っているのに無視ですか?! ずるずる、どたどた、という擬音がピッタリの引きずられようで歩くと、すぐにいつものアトリエ部屋が見えてきた。 なんだ、いつもの部屋じゃない。 そう思っていたのに、宮田さんはアトリエ部屋ではなく右隣の部屋の前で立ち止まって、ポケットから鍵を取り出してガチャリと錠を開ける。 そこはもちろん、私は入ったことがない部屋だ。 しかもしっかりと施錠してあったということは、普段はほかのスタッフも立ち入りを禁止されているのだろう。 「どうぞ」 扉を開け、電気をつけて中へ入っていく宮田さんに続いて、私もその部屋へ足を踏み入れる。 「うわぁ、すごい!」 部屋に一歩入った瞬間、驚きと感動で感嘆の声しかあげられなかった。 だってそこにはドレスやトップスやスカートや……目を見張るような衣装の数々がたくさん揃っていて。 ――― 最上梨子の世界、そのものが詰まっていた。 普段の喋り方やわがままぶりを見ていると、この人は本当に最上梨子なのかな?と、疑ってしまいそうになる時があったけれど。 紛れもなく、本物だった。 これはすべて、彼が一から生み出したもの。 最上梨子らしいデザインに、繊細な色使い。 どれもじっと見入ってしま
『朝日奈さんにとってもさ、ほかのデザイナーと面識ができるんだから、損はないんじゃない?』 それは……そうだ。 それに、行けばいろいろとデザインのことに関して勉強になることもあるかもしれない。 私はデザイナーではないけれど、知識として蓄積できれば今後きっと仕事の役に立つ。「そのデザイナーさんって、どなたですか?」 『香西健太郎(こうざい けんたろう)だよ。知ってる?』 「知ってます!」 名前を聞けば、テレビにも出たことがある結構な有名人だ。 彼がデザインしたティーカップを私だって買った覚えがある。 ミーハーかもしれないけれど、ちょっと実物を拝見したい気持ちが湧いた。 『お、食いついたね。じゃ、決定。朝日奈さん、間違っても今度はスーツなんかで来ないでよ?』 「えぇ?! スーツじゃ、ダメなんですか?」 もしも行くとなったら… スーツで行く気満々だったのに、先にそう言われてしまった。 なにも言わなかったら私がスーツで行くと見越して、宮田さんは釘を刺したんだろう。 スーツと言っても、もちろんビジネス用じゃなくて、ワンピーススーツで行こうと考えていた。 私が持っているのは色はグレーだけれど、ビジネス用とは比にならないくらい女性らしく見えるはずなのに。やっぱりダメなのか。『ダメダメ。だって、香西健太郎のパーティだよ? 場所だって、でっかいホテルでやるんだし』 「で、でも私、スーツ以外にパーティに着ていくような、ドレスみたいな服は持っていないです」 『心配いらないよ』 だったら行くのは無理ですね、と言おうとしたところで、宮田さんが先にそう言った。 心配いらないって、どういう意味なんだろう?『ドレスなら、僕のところにたくさんあるから』 「え?」 『僕を誰だと思ってるの?』 誰って……気まぐれイタズラわがままっ子でしょ。 いや、それもあるけど本来は……『一応、僕もデザイナーなんだけどな』 そうだ。この人は普段ふざけているけれど、デザイナー・最上梨子だった!『明日、事務所においでよ。待ってるからね』
「日曜日? なぜですか?」 『なぜって……デートだから』 「意味がわからないので、お断りします」 『あ、ちょっと待って!』 私がそのまま電話を切るとでも思ったのか、電話口で慌てるような声が聞こえてきた。 ……ちょっと、面白い。 相手に見えていないのをいいことに、私はスマホを耳に当てたまま、思わず笑みを浮かべる。 いつも驚かされたりあわてさせられたりしているのは私のほうなのだから、ちょっとはあの人もあわてたりすればいい。「なんでしょう?」 『デートっていうのは言い過ぎた』 でもやっぱり、こうやって意味不明だ。『実は、朝日奈さんにお願いがあってね』 「お願い?」 この人が私にお願いなんてすることがあるの?と、少し違和感を覚える。 だって、いつも有無を言わせず決定するような、わがままな性格だと思っていたから。 人の都合を気にかけるような、そんな普通の人間らしい部分も持ち合わせていたのか…。 どうやら少しは普通の人間であったようだけれど。 それが意外すぎて、今私が喋っているのは本当に本人かと疑いたくなってしまう。『僕の知り合いのデザイナーがパーティを開くんだ。事務所の十五周年記念パーティ。僕も招待されたんだけど、朝日奈さんに一緒に行ってほしいと思って』 「わ、私がですか?!」 な、なぜに私が。 だって私、関係なくないですか? 「いや……おひとりで行かれては?」 『招待券がね、二枚届いてるんだよ。なのに一人で行くのもどうかなって感じでしょ。それにこういうときは女性同伴でどうぞって意味じゃない? 男を誘って行ったりしたらがゲイじゃないかって邪推されちゃう』 とうとうと電話口で喋ったかと思うと、最後はそう言って笑い声を漏らす。 あなたがゲイに間違われようと知ったことではありません。 逆にあたふたしてるあなたを、見てみたいくらいですけども。 「別にもう……いいじゃないですか、ゲイデビューしても」 『バカなこと言わないでよ!!』 そういう業界にはゲイも多いらしいけれど。 彼はどうやら微塵も誤解されたくないらしい。「だったらほかの人を誘ってください。そちらの事務所のスタッフの方とか」 いつもデザイン事務所に赴くと、電話番を兼ねたような事務の女性もいるし。 たとえ事務所にいなくとも、ほかのスタ
「緋雪! 今週の日曜日、空いてる?」 お昼休みに休憩スペースでコンビニの鮭おにぎりを頬張っていたら、麗子さんから声をかけられた。「今週、なにかあるんですか?」 「うん。友達と行こうとしてたライブがあるんだけど。その友達、行けなくなっちゃってね。チケットがもったいないから一緒に行こうよ!」 テンションの高い麗子さんを前に、眉尻を下げてペコリと頭を下げる。「すみません、今週はちょっと用事があるんですよ。本当は麗子さんとライブに行きたいんですけど……」 麗子さんと出かけるほうがどんなに良いか。 どんなに楽しくて、気が楽なことか。 聞けば、それは今人気のバンドのライブだった。 ストレス解消にはちょうどいいのだけど。「なんだぁ、緋雪もダメかぁ」 「ごめんなさい」 シュンと肩を落として謝ると、麗子さんがクイっと口の端を上げて意味ありげに微笑んだ。「何……緋雪、彼氏でもできたの?」 「いやいやいや、そんなわけないじゃないですか!」 手をブンブンと横に振りながら、あわてて真っ向否定すると、麗子さんはケラケラと綺麗な顔で笑う。 否定する自分が悲しいけれど。「また、誘ってください」 「うん、また今度。その代わり、男が出来たら絶対言いなさいよ?」 せっかく先輩が誘ってくれたのに、それを無下に断る後輩でごめんなさい。 それもこれも全部、気まぐれイタズラわがままっ子のせいなんです! ――― 時は、昨日の夜にさかのぼる。 私が仕事から帰ってきて、家でホッと一息ついたのもつかの間。 スマホに、宮田さんから着信があった。 どうしたのかと、自然と眉間にシワを刻みながらも静かに通話ボタンを押す。「もしもし」 『あ、もしもし。朝日奈さん?』 一週間ぶりに聞く、彼の声。 そう、あの日…… 告白だのキスだのと、幻聴とか幻影に一気に襲われたあの日から、会ってもいないし電話もしていなかった。 デザインの進捗は気になっていたし、それは仕事として確認しなくてはいけなかったけれど。 あれがまったくの幻だったとは、やっぱり思えない。 どう考えてもあれは夢や幻じゃなくて現実だった。 それをただ認めたくなくて、私は幻だったと思いたいだけなのだ。 仕事をする上で、彼を無視するのもそろそろ限界だなと思っていた矢先。 おそるおそる電
「もし、そのモデルくんに会うことができたら告白しちゃう?」 「なにを言ってるんですか。もう会えませんよ。八年間、全く紙面で見かけませんし」 「万が一だよ。万が一、もう一度会えたら、好きですって言うつもり?」 サラっと返事を返す私とは正反対に、隣を見るとなぜか宮田さんは不機嫌そうな面持ちになっていた。 八年ぶりにまた会えたからって、告白? 本当になにを言うんだ、この人は。 向こうにとってみれば八年ぶりも何もなく、いきなり知らない女が告白してきたことになるのに。 八年前からファンでした、くらいのことは勇気を出せば言えるかもしれないけれど。 本気の告白なんて、できるわけがない。ま、するつもりもないけど。 憧れの人をまたこの目で見てみたいだけだ。 でも、こういうのももしかしたら片想いのうちに入るのかな? 憧れだから、違うのかな?……それすら私はよくわかっていない。「どうしたんですか? 顔が怖いですよ」 「だって気になるし、妬けるよ」 漆黒の瞳が、私を捕らえてじっと射貫く。 なんだか距離が近いのでは? と思ったときにはすでに、額にそっとキスをされていた。「なっ、なにしてるんですか」 「あ、本当だ」 まるで今のは、自分ではない別人がしたことみたいに、宮田さんはあっけらかんとした表情で笑っていた。 冗談では済まされない行為でしょ、これは。「なんか今ね、チュってしたくなったんだ。なんでだろうね」 なんでだろうね、って言われても、こっちが聞きたい。「……あ、そうか」 彼は自問自答しつつ、なにか自分なりにその答えを見つけたようだ。「僕は朝日奈さんが好きなのか……」 なんだ、そういうことか。 などと、納得したような顔をする宮田さんを前に、私は驚愕して言葉が出ない。 ただ宮田さんを見つめて、パチパチとまばたきを繰り返してしまう。 私は今、告白されたのだろうか。 宮田さんから? ま、まさか。 だって宮田さんにとって私は、ただの仕事相手で。 ほかの女性と変わらない、からかって遊ぶだけの、なんてことはない存在のはずなのに……「冗談……ですよね?」 だけど。宮田さんの唇が触れた額が、そこだけ熱を持って熱い。 どうしちゃったんだ、私…… というか、唐突になんてことをしてくれるんだ!「本気だけど?」
ただ一方的に憧れているだけだもの。 私のことを知ってもらおうとか、そんな気持ちは一切ないから。 あの時はただ、彼を見て純粋に胸がキュンとした。 整った顔がまるで王子様みたいで、その笑顔に胸が高鳴った。 あれから八年経つ。……今の彼はもっと大人になっているんだろうな。 今もきっと、イケメンぶりは健在なのだろう。「袴田さんもこのことは知らないの?」 「……うちの部長ですか?」 唐突に出された名前に、首を傾けながら不思議そうに宮田さんを見る。「はい。言ってませんけど?」 「それを聞いたら、袴田さんは妬いちゃうよね」 「……は?」 今度は思わず眉をしかめた。この人はなにを言ってるんだろう。「部長が……妬く? 私にですか?」 「うん。あれ? そういう関係じゃないの?」 「違いますよ! 部長は若く見えますけど四十歳です。私といくつ歳が離れてると思ってるんですか。そんな関係にはなりえません」 私がそう言うと、宮田さんはワハハと声に出して急に笑い出す。 勘違いが解けるといいのだけれど。「バカだね、朝日奈さんは。年齢なんて関係ないじゃん。それくらい歳の離れたカップルや夫婦、いくらでもいるよ」 そう言われてみると、そうだ。 その人のことを好きかどうかであって、年齢は関係ない。 私と部長は十四歳差だけれど、世の中にはそれくらいの歳の差カップルもたくさん存在する。 自分の言ったことが、今更恥ずかしくなってきた。「それにしても袴田さんは四十歳なんだ。ほんと、実年齢よりずいぶん若く見えるね。髪型や体つきもオジサンくさくないし、シャツとかネクタイとか、選んでるもののセンスがいいからかな」 部長とは一度会っただけのはずなのに、そこまで見ていたのかと感心してしまったけれど。 そういえば以前、部長が言っていた。 人や部屋や空間……そういうところを見てしまうのがクセなのだと。 宮田さんも、きっとそうなのだろう。「部長は元々インテリアデザイナーを目指してたんですよ」 「……デザイナーね。なるほど、どうりで。まさか僕と同じ畑だったとは」 なにかをデザインして、それを形にしていく…… そう。ふたりはおおまかには同じ畑の人間なのだ。「ま、とにかく。袴田さんと付き合ってないんだったら、ライバルはその、八年前のモデルくんかな
「今から言うことは誰にも言わないでもらえます?」 「わかった」 「絶対に秘密ですよ?」 「もちろん」 本当は私がただ恥ずかしいだけで、別に今さらほかの誰かに知られたとしてもどうってことのない内容なのだけれど。 だけど大げさに“秘密”だと冗談を言う私に、宮田さんがうなずきながらイタズラっぽく微笑む。「これで僕たち、お互いの秘密を共有しあう仲になるんだね」 一応そうなりますかね。あなたのほうは本当に誰にも言えない秘密ですけど。 何故か意味深に言う宮田さんがおかしくて、思わずクスっと笑いがこみ上げた。「私が高校三年生のときの話なんですけどね。たまたま通りかかったチャペルで、モデルさんが撮影してたんですよ」 「撮影?」 「はい。今思えば、ウエディング専門誌とか、そういうのだと思うんですけど。真っ白なウエディングドレスを着た綺麗な女の人と、かっこいいタキシードを着た綺麗な男の人がいました。周りには機材がたくさんあって、カメラマンやスタッフもいて、すぐに撮影だってわかったから、私はヤジウマで遠くからそれを見ていたんです」 見ていた……というより、見入っていたんだ。 その場から離れられなくて、釘付けになった。「男性のモデルさんがすっごく素敵で、イケメンで、かっこいいなぁーって思っちゃって。でも、あとでどの雑誌を探しても、そのモデルさんを見かけることはありませんでした。だけどもしかしたら……私もこの業界に就職すれば、また会えるかもしれないって内心そう思ったのは事実です」 動機、不純でしょ? と笑ってそう言えば、宮田さんが苦笑いを浮かべる。 本当に不純な動機だ。 そのモデルの彼に近づけるのなら、職種は何でも良かったのか?と、当時の自分に突っ込みたいくらい。 だけど実際にブライダル業界に就職してみたら、仕事は思っていた以上に楽しい。 今は当初の動機を忘れちゃうくらい。「そのモデルの名前は?」 「さぁ? わかりません。年齢は若かったと思いますけど、もちろん私よりも年上でしょうね」 「もしかして、まったくなにも知らないの?」 驚きの声をあげる宮田さんに、私はゆっくりとうなずく。「あの時たまたまモデルをやっただけで、元々モデルとしての活動をしていなかったのかもしれませんし、今となっては探す手段もありません」 「そっか」 「とい
「あ、起きた?」 少しまどろむ、なんてかわいいものじゃない。 どうやら私はソファーで一時間以上ぐっすりと眠ってしまっていたようだ。「疲れてたんだね」 宮田さんがデスクから離れ、こちらへと歩み寄ってくる。 その顔はおだやかで、不機嫌な様子はない。「買ってきたものが冷めちゃったな」 「本当に申し訳ありません」 宮田さんにしてみれば、食事を買いに行って戻ってきたら私は寝ているのだからあきれただろう。 あぁ、もう……穴があったら入りたい、とはこのことだ。 恥ずかしさと申し訳なさで、真っ直ぐ宮田さんのほうを見ることすらできずにうつむく。「それにしても寝ちゃうとは。いい度胸してるよね」 「っ………」 機嫌を損ねなかったのは不幸中の幸い……などと勝手に思っていたけれど。 口調とはうらはらに、実は密かに怒っているのかもしれないと疑念を抱く。 宮田さんが怒ったところなんて、今まで見たことがないけれど。 こういうタイプは怒ったら怖い……とか?「それとも、僕を誘ってるってことだったのかな?」 隣に座った宮田さんを盗み見るといつもの笑顔を浮かべていたので、なぜかそれが私をホッとさせた。 ……怒ってはいないようだ。「ち、違います!」 「はは」 誘っているとか、100%冗談だとしても恐ろしいことを言わないでもらいたい。 冷静に考えてみたら、いつもこの部屋で私たちはふたりきりなのだから。「人生で最高に大切な思い出を、一緒に造ってあげたいのはわかるけどさ。ハードに仕事をしすぎたら身体を壊すよ?」 「……え?」 「雑誌で言ってたでしょ? この仕事を始めたきっかけ」 もうそろそろ失礼します、と頭を下げて帰ろうかと思っていた矢先だった。 宮田さんが不意にそんなことを言ったのは。 それって、例の…… 私が袴田部長に騙されて載ってしまった雑誌の話だ。『新郎新婦のおふたりにとって、人生で最高に幸せで大切な思い出を私も一緒に造ることができたらと思ったからです』 あの質問と答えの部分だけ活字がほかより大きかったけれど、そこまでよく覚えてるなと感心してしまう。「あれは……実際にそう思ってる部分はありますけど、ほかにももっとあるんです」 「?……なにが?」 「この仕事を始めようと思った、不純な動機です」 私が苦笑いでそう言う
「朝日奈さんさぁ、晩御飯まだだよね? たしか、仕事の帰りだって言ってたもんね」 「……はい」 「じゃあ、今からなにか買ってくるよ」 「え?!」 ……なんですか、その唐突な言動は。 今、仕事の話をしていましたよね? この人の頭の中のスイッチングが、本当にわからない。「けっこうです。お話が済めば失礼しますので」 「この近くにさ、遅くまでやってるテイクアウトのお店があるんだ」 すぐ買ってくるから、と笑みを向ける宮田さんに、人の話を聞いていますか?と突っ込みたくなる。「朝日奈さんはきっとお腹がすいてるんだよ。人って、お腹がすくと無意識に不機嫌になるからね」 一方的にそう言葉が放たれ、パタンと部屋のドアが閉まる。 急にシンと静まりかえる部屋。 突然ひとりでこの部屋に残されてしまった。 だいたい、去り際に言ったさっきのセリフはなんなのよ。 このイライラの原因は、空腹からきているとでも? 仕事終わりに呼びつけられ、おかしな発案ばかり聞かされればイライラしてくるに決まってる。 それを私が空腹だからだと思いこむあたり、ポジティブというかズレてるというか。 誰もいないのをいいことに、私はソファーの背もたれにダランと頭を乗せて、ぼんやりと天井を見上げた。 そのまま数分が経ち、宮田さんは仕事の相手なのだから、イライラさせられたとしても顔や態度に出しちゃダメだと少しばかり反省モードになる。 本当はあの人が、デザイナー・最上梨子なのだから。 やはり今日はエネルギーが足りていないのがいけない。 エネルギー不足だと、あの気まぐれイタズラわがままっ子には太刀打ちできない気がする。 なにを買いに行ってくれたのかわからないけれど、宮田さんが戻ってきたら、適当に理由をつけて今日はもう帰ろう。 こういうときは、仕事の話も仕切りなおすのが一番だ。 宮田さんが戻るのを待っていたはずなのに…… 私の身体はまるで充電が切れたかのようにソファーに沈んで、挙句まどろんでしまっていた。 ふと気づいた次の瞬間には、身体の上にブランケットが掛けられていて。 それに驚いて、咄嗟に飛び起きるように上半身を起こす。「す、すみません! 私、寝ちゃってました」 部屋の奥にある仕事用のデスクに座る宮田さんを視界に捉え、あわてて頭を下げる。